峯城近傍文化遺産

森地区にある天王さんとは?  H27年8月16日 記

調べてみました。森区に祠がある天王さんとは  (津島神社が本社です。毎年お札を頂に代表者が、おまいりします)
津島神社の御神体は、インドの祇園精舎の守護神である「牛頭(ごず)天王(てんのう)」で、厄病送りの水神様と言われています。
御由緒は以下の通りです。
 津島神社は欽明天皇元年(540年)に壱岐対馬より、
御祭神建速須佐之男命が御来臨されたのが起源とされ、
当時は「津島社」と称されていましたが、
その後神仏習合による天王信仰が広まり江戸時代まで「津島牛頭天王社」と呼ばれ、
今でも「津島の天王さん」と親しまれています。
諸国の天王社の総本社で全国に約3,000のご分社があるそうで、一条天皇の正歴年中には天王社の号を賜わり、
その後、尾張の英傑織田信長・豊臣秀吉・尾張徳川家の特別尊崇せられ、社領等多くの寄進がなされました。
 明治の神仏分離後は「津島神社」と改称されたとのことです。

御祭神は以下の通りです。
主神:建速須佐之男命[たけはやすさのおのみこと]
相殿:大穴牟遅命(大国主命)[おおなむちのみこと]

御神徳は以下の通りです。
疫病・厄難除け、授福を戴く神として信仰されています。
御祭神建速須佐之男命が出雲の国で稲田姫命を娶られた時、
喜びの気持ちを詠われたのが我国最初の歌に因み、
夫婦円満・良縁・縁結の御利益も信仰されています。

柴崎の近藤弘之様から投稿を頂きました。H23年4月23日 記

柴崎の公民館に薬師如来像が安置されています。その状況をお聞きしましたところ、
願正山東光寺の薬師如来についての書き物を頂きました。それを原文のまま公開させて頂きます。

 以下 原文
願正山東光寺の薬師如来について
1191年 鎌倉時代 源頼朝により幕府が開かれる。
1274年 元の大軍が襲来
1323年 一心院開創 峯越後守政実による
1331年 峯城築城(元弘年間)
1332年 後醍醐天皇即位 楠木正成・新田義貞・足利尊氏が重臣
1335年 室町幕府を開く 足利尊氏が反逆し天皇を京から追い出す
 
      薬師如来像が彫刻され薬師堂も建立された。木造・彫眼・古色
      (亀山市に無宗派の薬師堂(場所不明)があったことは事実)

1467年 応仁の乱 守護大名が勢力を増す。尾張の領地を信長の父信秀がとる。
      この後約100年間 戦国時代となる。
1582年 織田信長 本能寺で討たれ豊臣秀吉が天下をとる
1583年 峯城戦火により炎上 
      この頃薬師堂も戦火にに合う。本尊は柴崎まで逃避 信者が背負って柴崎北入り口で行き倒れとなっていた。(s20年ごろの長老の話)
      柴崎地内の願正山東光寺(旧東光寺屋敷)に安置する。
1647年 一百観音像(江戸時代)現在84体 木造・刻眼・金泥・江戸 柴崎久兵衛
1692年 弘法大師像(天保4年) 労誉 源西

 原文終わり  
とのこと。


現在、柴崎の公民館に薬師如来像、一百観音像、弘法大師像が安置されています。写真も取らさせて頂きました。
薬師如来像です。                 一百観音像です。
 


弘法大師像です。
 
願正山東光寺(旧東光寺屋敷)跡です。近藤さんに立っていただいているところです。
手前の道路に行き倒れていたとのこと。


この所から古城址(中央建物の左後ろあたり)が見えます。 このところから青館も見えます。
  

この所の後ろ側の道路が昔の大通りでこの道に向いて歩くと亀山へ行く道です。
右に行くと峯城の柴崎の入り口へいけます。賑わいの道であったとのこと。



連理の仲! 

無二の二人とってのデートスポットになる所を紹介します。
まづ、御神籤を購入し(絵馬もあるようですが普段は閉まっています)
鳥居がありますがこの奥に重要な場所があります。

 
                       御神籤や絵馬を掛けて希望が叶うことを願います。

鳥居の中に入ると山の神が祭られています。 ここからが二人の世界です。(能書?)
 


人智をもってはかり知れない連理の榊だそうです。
是非一度訪れてみて頂ければと思います。

真慧上人と吉尾道場(峯氏の領地に健立) H25年1月28日 記

武士が禅宗を信仰したのに対し一般庶民はまた之よりも簡易で大衆的な真宗を信仰するようになったのは当然である。これに一層拍車をかけたのが真慧上人の行動であった。上人は真宗高田派本山専修寺第10代の住僧であるがもと下野国芳賀郡大内荘(高田)にいたが、諸国教化の志願を起こし、長禄三年高田を出て加賀越前、近江などを巡行して寛政元年伊勢に入り朝明郡大矢知村に一宇を健立して光明寺と呼んだ。然るに当地は布教に便利でなかったので、八に工と書く年三重郡北小松村中山に一宇を建立し中山寺といい、秋ごとに月を眺める明境であるからと山号を月見山とした。信者は多くなっていったが、領主後藤采女正との間に葛藤が生じ蓮蔵坊慶林に譲り鈴鹿郡原に移った。中山寺はその後天文十五年秋、内部川の対岸の南小松村(久開田村の大字)に移り現在を迎えている。
上人は北小松村に居た時、鈴鹿郡原村に信者が居たので折々その所に出張して教化に従事していた。この所にも道場を建て吉尾道場と称した。この時中山寺を弟子に譲り吉尾道場に居住した。
しかし、領主峯氏と折り合い悪く、遂に去って庵芸郡一身田村に移りこのところに一宇を建てた。専修寺の寺号を移した。(時に寛政六年)
真慧上人鈴鹿郡峯の原吉尾とゆうところに一寺を草創し中山寺と行きをして教勧し給う。両所に住み給うこと四十五年とのこと。信者が余りに多く周りの僧侶から憎まれ寺を焼きはらわれたと。
(亀山地方郷土史より)
秀吉が来たのパンフレットに吉尾道場が載っています。


鈴鹿市椿の辻様より投稿!(一心院) H25年1月12日 記
峯城に関する貴重なメールを椿の辻様から頂きました。(掲載本人様 確認済み)

峯城については、私の遠い親せきの先祖が城にて奥女中の大将、今で言えばリーダーをしていたのだと聞かされています。
親せきは徳原の坂の上にて車大工(鍛冶屋)をしていた内田といい古い方なら知っていただいているかも知れません。内田家は絶えててしまいましたが一心院に墓があり、私も時々お参りをしています。また、峯城は信長、秀吉の時代のことであり、安楽越えで椿辺りも焼け野原にされた・・・。と


web管理者からの返信

歴史資料を調べて、これからblogに乗せる予定です。
・内田家の件
定直の乳母に関することと思われるので貴重な情報です。定直に関する記事はここをクリック。墓地にある看板をご覧ください。
・椿が焼け野原の件
小岐須氏(盛経;昔の経だけど)、山本氏などは秀吉と戦っています。羽柴軍は小岐須城に攻め入りこれを焼く。盛経奮戦し死す。 と鈴峰の郷土史にあります。昔はこのあたりは関氏の配下にありました。北勢にある峯城に関する城についても近じか記事に致します。
辻さんありがとうございます。今後とも宜しくお願い致します。


川崎コミュニティから古城址へ向かう H25年1月9日 記
西生寺から長善寺へ向かいそこから川崎コミュニティへたどり着きました。川崎コミュニティはここをクリック
ここの玄関から西の方向を見ています。雪がかかった鈴鹿山脈が見え、そのふもと当たりに見える小山が峯城の山です。高い鉄塔が小さく見えますが左の次が櫓台の鉄塔です。右に行くと青館にある鉄塔へ続きます。
 

ここから西に向かうと306号線の巡見街道です。墨田橋東詰に着きました。
四日市方向に巡見街道を20mほど歩き左の方向の道を歩くと古城祉にたどり着きます。


左を見ると峯城址の山が見えます。川は八島川です。
 

橋を渡って道なりに人家に向かうと柴崎の公民館に行けます。ここにも峯城に関係した仏像が安置されています。
後日紹介出来ればと思います。関係者にお願いしてみます。

巡見街道から左に入った所から撮りました。白い鉄筋の建物が見えますが通り過ぎた直ぐ右が古城に行く坂道です。
鉄塔が見えますが高台の鉄塔あたりが青館址(これも櫓台)です。

次回は古城址を紹介します。

西生寺を訪ねて H25年1月8日 記

これが天台宗の西生寺です。(西の方向に峯城があります。

本堂の撮影は遠慮させて頂きました。ただ、昔からの石碑は許可を頂きました。一番高い碑は江戸時代に近くで財を成した方が祭られたと住職さんからお聞きしました。
 

その左隣が興味深いと思います。峯氏の字があり、戒名を知りたいものです。
残念ながらインターネット公開は許可を得られませんでした。
歴史書の中からの引用の範囲でとの事でした。


これは石を彫って姿を浮かせて見せる姿彫りだそうです。観音様を浮かせています。
このお寺も歴史書の確認から加筆を加えたいお寺でした。

長善時を訪ねて  H25年1月7日 記
川崎町南條にある長善寺を訪れました。場所が分からず南條の自治会長さんにお聞きして南條公民館の裏にあることが分かりました。
本東山長善寺は真言宋御室派,開祖不詳とのこと。天正峯合戦で数度の兵火にかかり堂宇焼失してから荒廃し僅かに本尊のみ残していた。堂宇は明治4年僧義典が中興して再建下と伝えられている。本堂は200年前の建物とされる。(亀山の文化遺産より)

長善寺薬師堂の跡は、残念ながら今はこの状態となっています。本堂の敷石のみが残っていました。

 

左隣の墓石が寂しそうです。
右隣には住職さんが住まれた家でしょうか?残念ながら廃墟となっていました。
 

残念な姿です。先ほどの雪だるまはこの寺を悲しんでお祈りしていたのでしょうか?寂しくなってしまいました。
この地は、県屋敷(あがたやしき)と称し、上古は県主の所有地と伝えられています。
本尊の桧材寄木造りの座像薬師如来はどこに!(文化遺産に指定されています。)
ウオンティッド!

市か県で保存されているといいのですが・・・。知っている方がいらっしゃいましたらお教え願います。
加筆:西生寺のご住職さんにお聞きしました。
本尊の桧材寄木造りの座像薬師如来は、ののぼりの野登寺に引取られているようです。
良かった。良かった。また、訪問してみよう。


西願寺を訪ねてH25年1月6日 記
橋を渡り斬った所に西願寺があります。左側に鐘つりのお堂があります
 
境内に入ると梵鐘は既になく建屋とその石の土台に馬の彫刻がなされていました。
石造りの手洗いの足の所に峯氏のお名前が書かれています。峯氏の末裔の方のお寺と言われています。
 

この寺についてはもう少し調べてから加筆いたします。境内を後にして西生寺に向かおうとする直ぐの道端に子供が作った雪だるまが解けて出してまるで西願寺に向かって拝んでいるようでした。私も思わず同じ姿勢で!
良く出来た芸術作品だと感嘆。歩いてみる物だと。(4日雪の日に)

峯城が仰ぎ見れる文化遺産巡り道中記(雪の日に!) H25年1月5日 記

雪の日に峯城近傍の遺跡を散策して見ました。峯城を臨みながらの遺跡巡りの散策道中記とでも。順路は自宅から林照寺を通り、西願寺、西生寺、古城跡、唯願寺、青館跡です。これからこれを記事にしていきます。(加筆を加えながら)

自宅から何時も通る林照寺です。境内からお参りをしました。道中の安全を願って!
 

ここは峯城の入り口で森入り口、柴崎入り口で通る共通の場所から少し東の方に進み、
東に向いて撮ったのは西願寺です。橋は八島川に架かる八島橋です。

振り向いて北西の方向に峯城を仰ぎ見ることが出来ます。

峯城の山が見えますが左側が森入り口(家より少し右あたり)で右側が柴崎の入り口です。
左の白い看板が小さく見えますがこの隣に峯城を示す道標があります。
田圃が見えますが峯城の時代には水が張られ沼地で入ることが出来なかったと伝えられています。


鈴鹿山脈も雪がかかり綺麗です。
寒いですが空気が綺麗、景色が綺麗、空が綺麗、雪雲が綺麗、田圃が綺麗、・・・・・、です。(一人散策です。)
次回に、西願寺を紹介します。


川曲坂下の地点は一心院でよいか? H24年12月20日 記

管理者に向けた公開コメントで川曲の坂下の地点は一心院でよいか?
との指摘を頂きました。木田では?と


一心院の案内板に川曲の坂下と記述されていましたがこの記述について歴史書を調べてみました。何せ大海人皇子(後の天武天皇)が泊まられた(頓宮)場所です。
亀山地方郷土史第一巻 著者:山田木水 本書での記述によると”川曲坂下の地点”との記述に此処はその名の上から一般に河曲郡にあると思われているようだが、実は本郡川崎村(今亀山市川崎町)にあるのである。川曲は流路の湾曲したところをいうので必ずしも河曲の郡名にかかわるべきでない。云々~ 、今堂坂と称するところがそれである。 と また、五鈴遺響の記述、伊勢名勝志の記述も紹介しています。当時道順の上よりいうも行程の上よりいうも、その真実なることが考えられる。としています。よって一心院にあるこの説明文は正しい。ということになります。(山田木水論から)

また、関町史(上)を調べてみると 大海人皇子鈴鹿関へ のなかで日本書紀を引用しています。その図で川曲の坂下を ”川曲坂下”として進路図を描いています.これが”川曲郡坂下?”ではとのことにされたか否か確認が必要です。
 
参考文献:亀山地方郷土史第一巻 著者:山田木水 発行:昭和45年3月31日
     鈴鹿関町史(上)発行:関町教育委員会 発行:昭和52年3月10日

山田木水さんの記述に真実味があるのでは?と思いました。
しかし、地元の方から1.川曲の坂下を川曲の郡(こおり)にある坂下と読めば、大きな地名の下の小地名となり一般的であるのに対して、大地名を書かずに、川曲の坂下と小地名を並べるのは不自然であるし、川崎から濡れたまま坂部まで行くのも遠すぎて不自然だと思います。との意見もありました。
どのように思われますか?ご意見をお待ちします


野元坂館跡 地元より投稿して頂きました。 H24年12月19日 記


辺法寺町の小林清文さんより投稿して頂きました。
史跡  野元坂(やげんざか)館跡
 
平安末期平氏の一族伊藤景清(悪七兵衛)の館跡。標高六〇メ-トルの台地上に、
あり方形で外側は土塁・堀を巡らしてあつた。 土塁南方の畑は今でも「馬場」
と呼ばれている。昭和四十四年三月東名阪国道建設のため発堀調査によって土
塁・周でつ(あまりの黒土)・溝止・土喉・柱穴群が検出され土師器・須恵器・
陶器などが出土した。


文章も写真も小林清文さんに提供して頂きました。ありがとうございました。今後ともよろしくお願い致します。



 一心院にお伺いしました。峯氏が建立したお寺ですH24年12月12日 記

峯城想像図に出てくる一心院にお伺いし院内を散策させて頂きました。

 
曹洞宗 一心院 
当院の説明が成され、峯氏も、大海人皇子(天武天皇)、ヤマトタケルも説明に登場しています。

 

墓地の標識です。
峯氏が建立した寺で本尊の馬頭観音です。

ご住職にお会いすることが出来て、堂内の撮影は3月15日にご開帳法要があるのでその時ならばとのことでした。
この地が古来より重要な土地であったことが示されています。峯城、のぼの神社、峯城近傍の文化遺産を結べば川崎を歴史街道にできるのでは?と思っています。調査して加筆いたします。

加筆:大海人皇子(後の天武天皇)の壬申の乱と鈴鹿関での頓宮について 
(川曲坂下は一心院でよいか? 上記記事 参照)

亀山市川崎町森にある林照寺は峯氏の時代に建立されています。 H24年12月11日 記

12月9日に林照寺で報恩講がありましたが、野袈裟があるとのことで拝見することにしました。
これが野袈裟です。


亡くなられた方の棺に掛ける布です。慶長十?9月15日とあります。今でもこの野袈裟は使われていて、慶長の時代から現代まで使われている事になります。今ではこの野袈裟が仕舞われた箱が棺に載せられるだけで開かれて使われることはありませんが檀家にとっては貴重なものです。国立京都博物館の館長の方のお見立てでは安土桃山時代の物とのことで貴重であるとのことです。

歴代のご住職とその年代、お墓、仏壇などを報恩講のお参りを通して投稿致しました

亀山市の文化財を調べてみました H24年12月9日 記

峯城近傍の文化遺産って 随分あります。まづ、調べた文献2冊をを紹介します。
参考文献:
亀山の文化財 発行 亀山教育委員会 
初版(発行 昭和51年10月10日 事務局 原 喜一)                   
第2版(発行 昭和63年 2月20日 事務局 佐野 益子)
特に2冊目は初版に比べ多くの川崎の文化遺産を紹介して頂いています。
さてその文化遺産ですが以下のようです。
まづ、峯城の遺跡は、県及び市に次の遺跡番号で登録されています。

遺跡番号;県:6585 市:136 
峯城 川崎町森字殿町4155番地外 140m*300m

さて、峯城の想像図にも載っていた遺跡は次のようです。
遺跡番号;県:6586 市:137
古城跡 川崎町川崎一色野畑3230外   70m*120m 

遺跡番号;県:7204 市:143
青館跡 川崎町字青   100m*100

以下の遺跡番号は全て登録されていますが省略させて頂きます。詳しく調べたい方は紹介させて頂いた参考文献をご覧ください。
 

種類   名称 住所  時代  備考 
 城址 小川城址  小川町小川  室町  峯氏与力
  山尾館址  田村町奥条  室町  峯氏与力
 彫刻 薬師如来座像   川崎町南條    長善寺(現在、野登寺)
     両尾町河内    宋徳寺
   薬師如来立像  長明寺町  平安  長明寺
   不動明王立像  辺法寺町  室町  不動院
   阿弥陀如来立像  田村町  室町  願正寺
     川崎町  室町  西生寺
   聖観音像  白木町    大善寺
 天然記念物  なぎの木  川崎町    伊藤重孝
 古墳  徳原古墳群  川崎町徳原    古墳は27ヶ
   金瀬古墳  川崎町下僧仏    古墳は4ヶ 
   小天狗古墳  田村町名越    
   富士山古墳    田村町大野    
   野褒野古墳群  田村町大野    古墳は16ヶ
   赤坂古墳     川崎町一色(赤坂)    
   堂坂古墳     川崎町堂坂    
   東山古墳群    川崎町名越東山     古墳は4ヶ
   名越古墳群    川崎町名越東山    
 遺跡  野元坂館跡     辺法寺町  鎌倉室町  
   地蔵層遺跡       川崎町字地蔵層  弥生  
         
         
         

なお、今後、機会を見てこれらの遺跡を訪問しこの文献を参考にwebに記事を投稿させて頂きます。

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