鈴鹿山脈越えで有名なのは色々あるようです。家康が琵琶湖の西から逃げ帰った時、鈴鹿の国見岳(1080m)と釈迦ヶ岳(1092m)の間にある根ノ平峠を通り朝明、千草に出て三河に逃れています。また、関が原で敗れた島津義弘が土岐多良から五僧峠を越えて近江の多賀に逃れています。近江の武将佐々木義賢(よしたか)も伊勢の千種城や柿ノ城(朝日町)を攻めて信長の怒りを買ったが、千種峠越え、八風峠越えを行っています。 もっと古くは大海人皇子は伊賀から鈴鹿越えをして関が原から京へと進軍しています。その途中に一心院に!との一説があります。 峯城の城主が馬頭観音を奉納した一心院にも大海人皇子の頓宮とのこと(他説あり)。やはり、鈴鹿山脈は古今を問わず京を守る大切な山で、勢州も大切な地域であり続けたと思います。今後も調べなければと思いました。でも皆生きる為には隠れ強制踏破して、がんばっているんだな~と。感服!
                        
西と東に分断する作戦の峯城の位置は?                       
   治田峠 越え
土岐多良 越え
 信長が進めた東西分断で家臣の柴田勝家は越前を守り、伊勢は関五家の神戸城に織田信考を養子で送り込こみ亀山城(佐治新助)と峯城(滝川義太夫)を滝川一益に任せている。(滝川義太夫の奥方は峯城の地元に伝わるかんざし井戸で金のかんざしと共に身を投げている) 本能寺の変により、家臣がたもとを分かち、秀吉は信勝と仲たがいし、信勝配下の勝家と滝川に一戦を仕掛け領地を制圧している。さて、左側の地図を見て頂きますと、この地を押さえると人の往来を制御できることができるということがわかります。昔から三関といい、鈴鹿関(伊勢国、現在の三重県亀山市)、不破関(美濃国、現在の岐阜県不破郡関ケ原町)、愛発関(越前国、現在の福井県敦賀市内)は有名ですが、雪の深い正月二十日に、鈴鹿越えを敢行して伊勢に侵攻しています。安楽越え、治田越え、土岐多良越えの三方から一気に伊勢を抑え、越前に向かっています。土岐多良越えは、羽柴秀長、筒井順慶、伊藤掃部助(がもんのすけ)、氏家行広など25千、治田越えは三次秀次、中村一氏、堀尾吉晴など2万、安楽越えは、秀吉自らが3万で七五千騎であったとのこと。何故こんなに三方からと思いますが、伊勢平氏の関氏5城のほか、関の新城、小野城、小川城、落山城、北山城、八幡城、青館、古城、原城、大久保城、山本城、小岐須城など鈴鹿山脈際に城が配置されて強固に勇猛果敢に守っていたからです。左の2段目の写真は、安楽越えの衛星写真です。林道安楽越え線が左右に白い線で表され右側上の白い点が石水渓です。太閤石があり秀吉が腰掛けた石とか!大雪の峠越えはさぞ大変だったでしょう。その下の写真は、近江の最とも上流御池川の君ヶ畑と伊勢の新町を結ぶ、竜ヶ岳(1099m)と藤原岳(1120m)の間にある治田峠を越えています。君ヶ畑越えとも治田越えとも言わる所です。土岐多良越えは関が原から美濃国(大垣)の多良、時、立田に入る経路です。少し余白があるので上記に記した堀尾吉晴のお話をします。私はお城の築城の神様ではと思います。晩年は島根の松江城や円城寺を築いています。それも湿地帯の上に!それで船の出入りもでき、商業も立ち上がり、松江の基礎を築いたと言われ人々に今でも慕われています。ちなみに峯城の部材(石垣、門など)を使いながら亀山城も築城しています。 現代でも賞賛される建築家ではないかと思います。戦国時代にふさわしい戦に明け暮れた生涯ではあっても!築城上手な武将多し!                      
峯城
越前 柴田勝家
   安楽超え
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