左側には清めの水処があり、手を清めて進みます。

能褒野神社

夏祭りに参列H28.07.08

夏の厳しい暑さに負けず、氏子の健康・長寿を願う祭りで例年7月8日10時から1時間あまり開催される。
各地区の自治会長と氏子総代の参列により、祭りが催された。

  

  


夏祭りに向け神社清掃H28.07.07

各地区の氏子総代で神社の清掃をおこなった。
  


ヤマトタケルの命のマスコットH27年2月15日 記

川崎としてヤマトタケルの命のマスコットを作り、ボランティア活動や地域の行事に使おうと考えています。
川崎小学校の建築に関わっている東畑建築事務所デザインが考案したものです。
ご好意により利用可能となっています。
 



神社参詣 H26年12月31日 記

五穀豊穣を感謝して参拝しました。
拝殿に進みます。                       本殿です。
 


大和武の尊のお墓にも参拝です。

峯城の整備作業が安全に行われた感謝を込めて来年の安全も祈願しました。
川崎の歴史資産を生かす活動をより一層活発にしなくてはとの思いを新たにしました。
夏祭り(7月8日)
祭りがのぼの神社で行われました。
 

少し早めに神社を訪れて境内を散策しました。


途中に忠魂碑が暗闇の中にひっそりと立っていました。合掌し低頭し御参りをしました。
戦没者の慰霊碑です。今の平和を支えた方々です。
 
側面に廻ってみると おじさんの名前がありました。加藤茂、加藤亘。母親(88歳)の兄弟です。今生きていれば90歳代です。
出来れば元気な姿でお会いしたかった。。。。  と再度、合掌。

三種の神器!H26年3月26日 記

ちょっとおこがましいのですが、’天皇陛下が伊勢神宮へ三種の神器とともに’との記事が載っていましたが、能褒野神社の日本武尊について調べていたので、このことを記事にしてみます。
現在、’草薙の剣’は熱田神宮に、’勾玉’は皇居に、’鏡’は伊勢神宮の内宮に、三種の神器は祭られているようです。

草薙の剣について、スサノオの尊が、ヤタノオロチを退治し、その尾から一本の剣を見つけ、天照大御神に献上し、オロチには常に雲がかかっていたことから、「天の叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)」と呼ばれたといい、天上の神々が地上世界の日向(九州の高千穂山)へ降る「天孫降臨」の際には、勾玉(まがたま)と鏡とともに草薙の剣がもたらされ、三種の神器となったとのこと。
 草薙の剣と呼ばれるようになったのは、初代・神武天皇の東遷で大和に都が築かれると、12代・景行天皇の子、ヤマトタケルは熊襲(南九州)や出雲、東国に遠征し、東国へ赴く際に叔母のヤマトヒメから受け取ったのが草薙の剣で、
相模国(日本書紀では駿河国)では、豪族にだまされ原野に火を放たれたが、
剣で草を薙ぎ倒して火を振り払ったため、「草薙の剣」
と呼ばれるようになった とのこと。

また、ヤマトタケルのゆかりの地は多く、焼津、吾妻、木更津などが有名です。
焼津は、ヤマトタケルが豪族の領地を焼き尽くした地であり、
吾妻は、荒れる海に悩まされて窮地を救うために妻のオトタチバナヒメが海に身を投げたが、「ああ吾が妻よ」とヤマトタケルが嘆いたことから、東国のことを「吾妻=東」といい、
木更津は、「君さらず 袖しが浦に 立つ波の その面影を みるぞ悲しき」と詠んだ場所です。

さて、当地の能褒野神社もヤマトタケルが「私の足は三重の勾餅(まがりもち)のようになった(三つに折れ曲がるほど痛くなった)」と言った地は「三重」亀山市田村町能褒野(能煩野とも)で、ここで亡くなっています。
最近、能褒野神社で亀山市による発掘調査が行われました。三種の神器のような大発見があるといいのにと発表が楽しみです。

能褒野神社のblogを開設しましたH25年4月9日 記

能褒野神社のblogを開設します。!
今までの能褒野神社の記事はこのblogのカテゴリ”能褒野神社”に記載しました。
本日以降の能褒野神社に関する記事については、能褒野神社のblogに記載しますので宜しくお願いします。

日本武尊が詠った”まほろばの里”である当地の”能褒野神社”を紹介できるように努力します。
記事にする基本姿勢は”まほろば”と思っています。



追記:能褒野神社御由緒 発行 能褒野神社社務所 平成十二年三月吉日 に記述されています。
   まほろば ・・・ すぐれたよい所
   たたなづく ・・ やわらかくたなびくこと
石碑には以下のように書かれている。
  倭は国のまほろば 
  たたなづく 青垣
  山こもれる 倭しうるはし

社務所住所 三重県亀山市田村町1409番地


安らぎの’こい’の物語 H25年2月14日 記

能褒野神社の東南側の入り口ですが入らずに、この左側の道を進むと安らぎの池があります。
 
                          歩いていると水辺の音がします。池です。

先ほどの親子と同じく、鯉の親子でしょうか? 恋人同士がじゃれ合う恋でしょうか?
 
先ほどの水音がした滝が見えます。
ゆったりした時間が経過しています。仲の良い鯉を見るのも一興です。

能褒野神社(東北側から入場) H25年2月13日 記

能褒野神社の北東側の入り口です。基石が迎えてくれます。
 
          噴水の石積があり、能褒野神社の周りの清水の流れの源流です。
噴水の清水が流れる小川です。流れの先に池があり貴重な供給源です。
 
               流れに沿って歩くと憩いの広場があり、ベンチで休憩できます。
これが、本殿の真東にある橋ですが、この橋の下を先程の小川の流れが右から左に(北から南へ)流れています。
ここも真東の入り口となります。神社の中の道も、橋手前の道(神社の周りの道)も散歩道として親しまれています。


橋を渡って真っ直ぐ進むと直ぐに神社の拝殿です。 (事務所あり)

能褒野神社の東南の入り口から H25年2月12日 記

能褒野神社の東南側の入り口です。
 
              入場しようとすると近所の親子でしょう微笑ましい散歩です。
邪魔しないように入りますと看板がありました。
 

もう少し進むと鳥居です。この道が古代からの道で菰野への近道です。一心院へも通じます。


大変残念ですが大事な石塔が倒れています。復元が望まれます。古代の道の案内石塔です。画像をクリック下さい。拡大されると文字が読めます。菰野街道四日市近道と書かれています。
 
関係者の方々はご存知でしょうか?このままでは!
能褒野神社の散策で東屋を見つけました。夕方4時過ぎなので少し暗闇が迫っています。
森の中なので特に!
 少し、ここで休憩です。


奥に広場があり、散策してみると、伊勢国学院を創設した伊藤忠孝の碑がありました。
 
そこから、東南側の能褒野神社の入り口へ歩くと、森地区の清掃をする場所が現れました。
何時も綺麗にしているので今も綺麗!(手前味噌?)


能褒野神社に参詣  H25年2月5日 記

拝殿(後方に本殿)の敷地内に入りました。    参拝!
 
記帳も致しました。普通の日ですが既に3名の方の記帳がありました。

隣に、1名の方の名前が写ってしまいました。ごめんなさい。

境内に向かいます。 H25年2月4日 記

拝殿殿に向かう真っ直ぐな道に一足踏み込むと右側に石の灯篭があり、獣燈と書かれています。
 

   
途中の獣燈に見守られながら砂利を踏みしめて進みます。

獅子でしょうか?威嚇されている?招かれている?個々人の心の持ち方しだいだと思いますが・・・。
いよいよ、拝殿です。

参詣 H25年2月3日 記

能褒野神社を参詣しました。御神燈です。両脇に設置されています。
 

御神燈殻少し進むと鳥居が現れます。その先に見えるのが能褒野神社拝殿です。

大和武尊のお墓の周りを散策 H25年2月2日 記

お墓を時計回りに廻って神社の西入り口までを紹介します。能褒野墓 飛地い号 となっています。向こうに見えている土手が安楽川の左岸です。少し下るとのぼの橋があります。
 
ここの看板から歩いてきた道を見てみますと(綺麗に整備されています。ボランティアでしょうか?)
歩いて気持ち良い道にしてもらっています。

ここも歩いてきた道を撮りました。左側がお墓になります。
 

お墓の周りに石塔の囲いが現れました。


遊園地が現れ過ぎたあたりで撮りました。
 
西の入り口に近づいた所でお墓を撮りました。奥まった小山の向こうにお墓があります。
これが能褒野神社の西の入り口です。次回はここから能褒野神社を参詣致します。
 
追記:途中にちょっと危ないところがありますが気をつけて歩いて下さい。全般的によく整備され気持ちよく散策が出来ました。周りの田圃も綺麗に整備されています。やはり神様の鎮座される所です。

散策 H25年1月31日 記

能褒野神社を散策しました。今回は神社の南東側の駐車場から前方後円墳のお墓までを紹介します。
 まづ案内看板を見てみましょう。
                          橋を渡ります。
 

道なりに上がっていくと                白鳥の森の公園
 
進んでいくと石の階段が現れます。      この階段を上がりきると
 

左側に宮内庁からの注意書き看板です。   これが大和武尊のお墓です。
 

歳旦祭 H25年1月1日 記

一月一日10時30分より能褒野神社で歳旦祭が催されました。
川崎町森区の自治会長として参列いたしました。式典の準備が出来ています。

 

式が始まりました。


各地区の自治会長さんです。          各地区の氏子総代さんです。
 
この式典の準備をして頂きました。大変お世話になりました。
神主さんから自治会長にお祓いをして頂きました。このあと氏子さんにも。
 
能褒野神社は日本武尊(やまとたけるのみこと)の霊が祀ってあります。本殿の祠の扉が開かれました。
祝詞が読み上げられています。
 
神主さんが神様に良き年をお願いして歳旦祭のお礼の挨拶です。


今から1300年前に書かれた”古事記”によれば、日本武尊(やまとたけるのみこと)は西の”くまそ”(九州南部)を滅ぼしたのち、東の蝦夷(東北以北)を命ぜられる。倭建命(とも書く:やまとたけるのみこと)は伊勢神宮に参拝して、天むら雲剣(あめのむらくものつるぎ)を賜り、その剣を振るって幾多の困難の末、東国を平定して帰路につくが、美濃の伊吹山で山の神に妨げられ、病気に成られた。命は故郷の大和に帰ろうと病をおして杖にすがりながら尾津前(おつのさき:四日市市西坂部町=旧三重村)にたどり着かれ”我が足三重の如くして、いと疲れたり”と嘆かれた。そしてやっと能ぼ野にたどり着かれ、亡くなられた。御年30才であったという。能褒野については諸説あるようですが、明治12年10月、内務省が、亀山市田村町にある鈴鹿川流域では最古の前方後円墳(5世紀初頭と推定)を日本武尊能褒野墓と認定している。
参考文献:市制40周年記念誌 亀山のあゆみ

加筆:日本書記では「日本武尊」、古事記では「倭健命」と記している・


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