歴史資料調

第2次峯城合戦の陣形H28.06.29


 




峯城散策時の資料H28年5月10日
この資料はH28年5月13日の峯城散策時の資料として作成しました。
峯城城郭図と共に使用します。このトップホームページの左側に城想像図をクリック下さい。
城想像図と城郭図とその説明が表示されます。
この2つの資料を使用して散策します。

峯城の歴史

 0.はじめに      峯城の歴史的価値は?
   峯城は、亀山市川崎町に所在する中世城郭である。天下統一を進める
  豊臣秀吉にとっては、天正十一年(1683)の賤ヶ岳(しずがたけ)の合戦、
  翌年の小牧・長久手の合戦と、2回続けて攻略の対象となった城である。
  この一件をもっても、峯城が担った戦略的な重要性をうかがうことができる。
     
              峯城の地理的価値は?
   峯城は、かつては近江甲賀郡から延びる安楽越えによる街道、伊賀から関、亀山を経て北伊勢に延びる街道の
  分疑点に位置していた。また、南下すれば南伊勢に進行することも可能であり、伊勢中央部における枢要(すうよう)の地であったといえる。
    

1.峯城の祖は?

  峯 政実(まさざね) 1331から33年ごろ峯城築城 峯城の祖

  関 実治(さねはる)の子として生まれ、兄弟に

    長男 神戸 盛澄(もりすみ)神戸城 24郷領

    二男 国府 盛門(もりかど)国府城 12郷領

    三男 関 盛繁(もりしげ) 亀山城 24郷領

    四男 鹿伏兎(かぶと) 盛繁(もりしげ) 鹿伏兎城 12郷領

    五男 峯 政実(まさざね) 峯城 24郷領

  関の五大将と言われた。

2.先祖は?

平 清盛(平氏一門の大将) 伊勢平氏 1118年生まれ

   武士としては初めて太政大臣に任せられる。日宋貿易によって財政基盤の開拓

   を行い、宋銭を日本国内で流通させ通貨経済の基礎を築き、日本初の武家政権を

   打ち立てた。(平氏政権)。

 重盛(しげもり)

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 資盛(すけもり)関白 藤原基房(もとふさ)に無礼を働き関谷久我に流される

  |      

関 盛国(もりくに) 資盛と久我の女性との間に生まれた。資盛は6年後京に戻るが

           母と久我に留まった。 関氏の祖

以降に -実忠(さねただ)-盛泰(もりやす)-盛光(もりみつ)-盛勝(もりかつ)

   |

  盛治(もりはる)

   |

  実治(さねはる) 古文書には関左馬之助実治と書かれている。

3.峯氏の家系

   峯 政実(まさざね)-主水佐(もんどのすけ)-休心(きゅうしん)-盛憲(もりざね)

-久次(ひさつぐ)-盛祐(もりすけ) (八郎四郎) 一向宗に加担し信孝軍と戦う。
                
関盛信(万鉄斎)と鈴与姫の結婚を排させ信孝と結婚したため、
                       鹿伏兎(かぶと)定義と峯盛祐はこころよく思っていなかったため。         

         |  天正2年(1674)長島の一向一揆で討死

         -清信(きよのぶ)(与八郎)とも。羽島市で信雄軍として戦う

            天正2年(1674)岐阜の美濃加賀井城戦で討死

神戸(織田)信孝が清信が幼少であったので、伯父の岡本良勝(よしかつ)峯城主とした。

  峯家は清信の戦死で断絶した。峯城城主は歴史に翻弄され次々と変わることとなる。

1567年 織田信長の北勢攻めを始め、北勢四十八家といわれた諸侍たちを  

 降伏させ、1568年には、南勢の北畠氏を滅ぼした。

       高畠家に織田信雄(のぶかつ)二男が養子となる。

  これで、伊勢全土を手中に治めるほどでしたが、まだ、木曽・長島・揖斐

 に囲まれた長島が大阪の石山本願寺の末寺、願証寺(がんしょうじ)があり、

 東海地方の一向宗の中心として、その門徒は約10万。長島城主伊藤重晴  を追い出し、

 一向門徒が治めていた。
この戦いで、峯城の盛祐が戦死、鹿伏兎の四郎盛氏(もりうじ)戦死、

 亀山の忠盛(た
だもり)戦死と関氏の戦死者が多い。

1568年 織田信孝が神戸城の養子になる。

  信孝は織田信長と鹿伏兎(かぶと)城の与力の娘との間で三男として生ま

 れた。神戸城主となり関氏をまとめて数々の戦闘に参加し、峯城も城主を長

 島一向一揆で失っている。

1582年 滝川一益(かずます) 天正十年本能寺の変後、北伊勢を信孝に代わって治める。

  ---羽柴秀吉・信長次男信雄と柴田勝家・信孝・一益との関係が世継ぎ問題から悪化した。---           

1583年 滝川益重(ますしげ) 一益は岡本良勝を退去させ、甥の益重を峯城主とする。(三千余り)

     --- 賤ヶ岳(しずがたけ)の合戦に向けての前哨戦となった。秀吉と一益との戦い。--- 

  羽柴秀長(ひでなが)、筒井順慶(じゅんけい)、蒲生氏郷(うじさと)、織田信包(のぶかね)、信雄(数万)により落城

  秀吉軍の武将たち(詳細)
    第一隊  羽柴秀長(ひでなが)、筒井順慶(じゅんけい)、伊藤掃部介(がもんのすけ)、稲葉伊代守(いよのかみ)、
          氏家左京介(さきょうのすけ)  約2万5千   美濃の養老から員弁の立田を経て桑名へ進軍させた。

    第二隊  三次秀次(ひでつぐ、秀吉の甥)、中村孫平次一民(まごへいじかずたみ)、堀尾茂助(もすけ)
                              約2万     員弁の治田(はった)越えを通り治田新田より桑名へ進軍させた。

    第三隊  秀吉自身が、細川忠興(ただおき)、山之内一豊(かずとよ)、加藤清正(きよまさ)、木村隼人(はやと)、
          蒲生氏郷(がもううじさと)、や関盛信
          {秀吉に面会するべく亀山城を空けたすきに、重臣岩間八左衛門(はちさえもん)が亀山城と峯城を占拠}
          を案内役として約3万で近江(滋賀県)の甲賀郡の山内から安楽越えをして、鈴鹿の原尾(わらび=亀山市両尾町)にでた。
    
  敗戦した峯城側の武将たちには
   滝川詮益(あきます)           原村の堀内帯刀(たてわき)
   津賀の小林筑前守(ちくぜんのかみ) 白子六右衛門(ろくうえもん)
   宮路佐内(さない)             青地頼好(よりよし)
   伊藤雅楽(うた)              小岐須常陸介(ひたちのすけ)
   山本刑部(おさかべ)     以上で3千余り

  益重(義太夫とも)。奥方は琴の名手で、かんざし井戸の地元伝説がある。

     峯城攻めの途中に信雄に任せて秀吉は、賤ヶ岳(しずがたけ)に出馬している。
    賤ヶ岳(しずがたけ)の合戦で柴田勝家は破れ没する。信孝も自刃した。   

  織田信雄が入城し修復に着手、主君筋の意地から秀吉に戦線布告する。

1584年 織田信雄(のぶかつ)峯城側軍 と 羽柴秀吉軍の合戦となる。

    --- 峯城は、信雄にとって秀吉の北伊勢侵攻を阻止する為の拠点となった。---  

   蟹江城主 佐久間信栄(のぶひで)    蒲生氏郷
   犬山城主 中川定成(さだなり)     長谷川秀一(しゅういつ)
   大野城主 山口重政(しげまさ)     滝川一益(秀吉側につく)
                       関盛信(もりのぶ)父子
     (5千余)               (一万二千余)

1584年3月15日 落城

     3月20日 秀吉側防備軍1600名入場、修復

       この後、小牧長久手の合戦で家康・信雄連合軍と秀吉で戦い家康・信雄連合軍優勢の中、
      秀吉からの和睦要請(11月11日)を信雄は自己保身のため家康の承諾を得ず勝手に和睦した。
           ---しかし、結果的に家康の力を見せ付ける形となった。---

     11月15日 信雄と秀吉は和睦し、合戦は終結誌し、廃城となる。

  滝川一益は、幼いころ堺で鉄砲の射撃を訓練し名手となり、鉄砲隊を率いて勢力を伸ばし信長の重鎮まで上り詰めている。
  戦い上手ではあったが、自分の立ち位置に変化が多く、信頼に欠ける一面があった。峯城の戦いにその一面が現れている。

                                                以上

峯城の歴史調査2013年2月7日

峯城を「日本城郭大系 第十巻 三重 奈良 和歌山 三重県の編集は三重県教育委員会文化主査 小玉道明」 の書籍から調べてみました。
峯城は鈴鹿川の支流、安楽川と八島川や御幣(おんべ)川と合流する亀山丘陵地の東の端に位置している。城下の東を員弁と亀山を結ぶ順見街道が通る要衝の地でもある。関四郎盛政(始め盛忠)の5男関政実が貞治6年に本城を築き峯越前守と称したと伝えられる。一方勢陽五鈴遺響では築城を元弘年間(1331から34)とする説もあるとのこと。峯家は関家、神戸家が近江六角家と接近するに及び、自然と六角家の一味となった。しかし、織田軍の伊勢侵攻によって神戸信孝に属した。天正2年(1574)長島の合戦で峯八郎四郎盛祐は討ち死にした。「勢陽五鈴遺響」「伊勢名勝志」には盛祐の死にあたり、弟与八郎が幼少であったため、同十年岡本下野守に峯城を賜うと記されているとのこと。
ところが、「関町史」に所載の「明智軍記」「筒井家記」には与八郎、すなわち峯信濃守盛治の名が見え峯城主として健在であったとなっている。また、盛治は同十二年の岐阜加賀野井の戦いで戦死し、峯家は断絶と書かれている。
天正十一年、亀山城主関安芸守盛信の臣、葉若藤左衛門は滝川一益に通じ岡本下野守のいる峯城を攻め、峯城は一益の甥滝川義太夫の手に落ちた。
豊臣秀吉は、大軍を率いて川崎村に対陣し、数ヶ月の包囲の後、義太夫を降し、織田信雄の臣佐久間正勝を城主とした。
しかし、翌十二年四月に秀吉と信雄が不和となり、秀吉は蒲生氏郷・関長門守に命じて峯城を陥落させ、これ以降、峯城は廃城とされた(伊勢軍記)。
城跡は、半島状丘陵地に築かれ、西側以外は自然崖となっている。中央に主郭をもつ3つの郭からなっており、主郭は北辺以外の3辺を、天端幅2-3m、高さ5mの高い土塁が囲んでいる60m*110mの大きなものであり、西辺の中央は土塁幅が広くなっていて、石垣を持つ天守台があったと伝えられる。
大手口は南に開き、主郭下の西側には削平地が残り、帯郭がある。また、主郭北には大きな空堀を隔てた郭があり、北西側の丘陵を遮断するため、北西の守りを浅い空堀と大きな土塁で固めている。

関氏と六角氏や蒲生氏との関係 2013年1月29日 記

1367年(正平22年)盛政は5人の子に領地を分けた。
1557年(弘治3年)佐々木六角氏の将小倉三河守が柿城を攻め神戸城も奪われたが、関本家から応援を出し奪い返す。
六角氏は関氏一族を見方にするため重臣蒲生定秀の次女を亀山城主関盛信に、3女を神戸友盛の妻にして手を結ぶこととなった。
永禄十年(1567年)織田信長が北伊勢に兵を出して諸城を降し、高岡城に迫ったが
一旦引き上げ、翌十一年再び来襲して信長の3男信孝を神戸家の養子として和睦。
関氏一族は六角氏から離れて信長に従うこととなった。
しかし、盛信だけは従わなかったが信長が六角氏を討つに及び降伏した。長島で一向一揆が起きると盛信はこれに通じたと盛信幽閉。(盛信は最後まで近江六角氏と連携し反信長勢力となったが、しかし、元亀四年(1573)盛信も遂に屈し蒲生賢秀の下に幽閉された。)
本能寺の変で盛信は亀山に戻り、比叡山で僧になっていた一政を還俗させ、蒲生賢秀の娘を妻とし後嗣とした。
岩間八左衛門が信田信孝に味方する滝川一益の兵を亀山城に入れ峯城の岡本宗憲を南勢に追う。
(柴田勝家の臣となっていた盛信の三男盛清を盛信の継嗣として推挙する岩間七郎左衛門らは亀山城を奪い信孝側の滝川一益に属した。)
盛信は一益の将佐治新助が守る亀山城を攻撃し城を奪還し、再び関氏の所有となった。
(秀吉は蒲生氏郷以下の諸将をもって峯城・亀山城・関城の奪回に成功、盛信は蒲生氏に属し亀山城を預けられた。天正十八年蒲生氏郷の会津転封により関一政は白川城を託された。)

天正十八年小田原攻めが終わると蒲生氏郷は松坂から会津四十二万石に栄進。一政はこれに従って
奥州白河五万石に移り亀山には岡本下野守宗憲が22千石で城主となった。




織田信長の北勢攻め2013年1月26日

永禄11年(1568)織田信長の北伊勢侵攻により信孝が神戸家に養子に入ります。
元亀四年(1572)信長により関盛信が亀山城を追放させられます。
これにより、関氏の支配は一旦終焉します。

1574年(天正2年)峯八郎四郎が長島で討ち死にすると峯家は途絶え、その後、岡本宗憲が峯城城主となっています。(九九五集) 

天正十年(1582)織田信孝を総大将とする四国攻めに向け関盛信、一政(かずまさ)父子は亀山城に復帰します。

織田信長亡き後、織田信孝、柴田勝家、滝川一益と羽柴秀吉が対立します。
関氏は本能寺の変後秀吉側に加担します。

関氏の与力岩間氏はこれに反対し1583年正月に亀山城を滝川一益に明け渡します。
滝川一益は亀山城に佐治新助、峯城に甥の滝川義太夫(益重)、関地蔵(新所城)にも兵を入れ秀吉に対抗します。
この時、岡本宗憲は南勢に追われてしまいます。後に岡本宗憲は亀山城に復帰し、峯城の門を亀山城に移築します。


秀吉の北勢攻め2013年1月25日

天正十一年1583)二月六日 秀吉が出陣を命じる。
土岐多羅越(岐阜県大垣):羽柴秀長、筒井順慶、伊藤掃部助(がもんのすけ)、氏家行広など25千、
君が畑越(滋賀県東近江市):三次秀次、中村一氏(かずうじ)、堀尾吉晴など2万、
安楽越:秀吉自らが3万
で侵攻した。

三月三日 亀山城は佐治新助が城明け渡し
二月二十日 国府城は開城
四月十七日 滝川義太夫は桑名に退去し峯城開城する。(奥方は琴の名手でかんざし井戸伝説あり)かんざし井戸はここをクリック  2ヶ月以上持ちこたえ兵糧・弾薬がきれて敢無く退去。


関氏の与力2013年1月23日

関氏の与力は亀山地方郷土史によると以下のようです。
 関氏の与力 
小川氏、白木氏、小野氏、葉若氏、野村氏、芝原氏、豊田氏、岩間氏、原氏、住山氏
峯氏の与力 
田村の山尾氏、原村の堀内氏、下井氏、大久保氏、青木氏、伊藤氏
神戸氏の与力 
高岡村の山路氏、岸岡村の佐藤氏、赤堀村の赤堀氏、楠村の楠氏
国府氏の与力   平野村の伊東氏
鹿伏兎氏の与力  坂氏、林氏
とのこと。記事に出てくる各々の氏の参考にして下さい。


峯氏の先祖を遡ってみれば興味深いことが2012年12月21日

峯氏の先祖をさかのぼって見ました。興味深い方も登場します。
峯政実(峯城祖)ーーーー>盛政(関四郎とか実治とも称す。伊勢の国鈴鹿郡関谷の地頭職を賜り、鈴鹿を領して北条家に属す)ーーーー>忠興(盛治)ーーーー>実頼(盛勝)ーーーー>忠氏(盛光)ーーーー>国定(盛泰)ーーーー>盛綱ーーーー>関実忠(関氏祖、関氏を称す)---->平盛国(平太郎、関氏の始祖:平家の一族は概ねその嗣を断ったのにもかかわらず盛国一人が命を全うする事が出来たのは源頼朝が平太郎の祖父重盛の旧徳に報いたものといわれている。北条氏の与力で晩年は久我の白石谷で病死)ーーーー>資盛(すけもり:摂政の藤原基房に出会い下車しなかったことによる資盛の摂政乗り合い事件を起こし本郡関谷に追われた)---->重盛ーーーー>清盛ーーーー>忠盛ーーーー>正盛ーーーー>正衡ーーーー>正度ーーーー>維衡(伊勢平氏の祖:寛弘三年<1006年>伊勢の守に任ぜられる)ーーーー>平貞盛

伊勢平氏の先祖は、もともと関東武士として関東で勢力を振るっていた平氏で、平安時代の末期にその一派が伊勢に土着して勢力を伸ばし、伊勢平氏として全国にその名をはせている。


参考資料:亀山地方郷土史第一巻 著者:山田木水

加筆:近世亀山藩大庄屋記録 九々五集 亀山教育委員会によると
関氏の出自については伊勢平氏と関連して諸説がある。という記述があります。
1.平氏一族関出羽守信兼を祖とする説(吾妻鑑)
2.武蔵野国川越で敗れた平一揆が伊勢の国へ流れて関の一党となった説(後鑑)
などがあり、諸説は何れも伝承の域を出ず関氏の出自を確定することは困難であると述べています。
しかし、南北朝期になると、亀山に居城を構えた関氏宗家のほか、その一族には川崎の峯氏、云々~関一党は北勢における有数の勢力に成長していた。 と記述されています。


blog管理者の感想:歴史の真実に迫るのは難しい と実感しました。


峯氏の系略譜2012年12月16日

峰家の系略譜について調べてみました。

▼1350年      ▼1400年                      
政実 --->長門守 --->主水佐 --->但馬守 --->大和守 --

   ▼1500年      ▼1550年
->盛憲 --->盛定 --->


                                                ▼1600年
盛益 --->盛祐(八郎四郎)  天正2年(1574年) 長島戦で討死
          盛治(与八郎)   天正2年(1574年) 加賀井戦で討死 全く断絶
       
参考文献:鈴鹿関町史(上)発行:関町教育委員会 昭和52年3月10日

注:みねけ を峯家ではなく峰家と記載していたのでそれに従いました。

峯城の城主の先祖をさかのぼってみました。

峯城に関する年表調2012年12月15日

峯城に関する年表を調べてみました。

・文永2年(1265年)関実忠、若山(若山・野村)に築城(九九五集)
・貞治6年(1367年)関盛忠、神戸城に長男盛澄、国府城に二男盛角、若山城に三男盛繁、関の鹿伏兎城に四男盛間宗、峯城に五男政実を配する。
(・1474年真慧上人が伊勢の国内で布教し一身田に無量寿院(後の専修寺)を建立する。)
・永禄11年(1568年)峯氏、国府氏、鹿伏兎氏が織田氏の配下となる。
・元亀元年(1570年)峯城主、峯盛憲 没
・元亀4年(1573年)関盛信、神戸友盛、織田信長により追放され、岡本良勝が峯城主となる。(九九五集)
・天正10年(1582年)関盛信、亀山城主に復帰する。徳川家康、本能寺の変に際し、堺から亀山を経て三河へ逃れる。
・天正11年(1583年)羽柴秀吉、安楽越えより亀山・峯城を攻撃する。佐久間信勝、峯城主となる。不動院(辺法寺)、野登寺(安坂山町)、長福寺(野村)焼失する。
・天正13年(1585年)大地震起こる。
・天正18年(1590年)関一政、豊臣秀吉に従い小田原城を攻撃、のち、陸奥白川へ移封され、峯城の岡本良勝が亀山城へ移封となる。亀山古城、峯城を廃し、亀山新城の築城を始める。

参考文献:亀山のあゆみ 発行 亀山市(企画課) 平成7年7月 亀山市制40周年記念誌



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